若手芸人の登竜門「NSC大阪校」に在籍していた2人の若者がいました。それがチャンス大城さんとくわばたりえさんです。今では芸能界で活躍する2人ですが、実は29年前に恋人同士だったという意外な過去が明らかになっています。
NSC時代、くわばたりえさんの優しさと母性的な魅力に「感電したように」惹かれたというチャンス大城さん。公園でのタックルや「好きすぎて怖い」と手を握れなかったエピソードは、青春の純粋な恋を彷彿とさせます。 チャンス大城さんは15歳でNSC入学、千原兄弟やFUJIWARAと同期という輝かしい経歴の持ち主でありながら、山に生き埋めにされた経験や厳しい家庭環境など、波乱に満ちた人生を歩んできました。
本記事では、くわばたりえさんとの意外な恋愛エピソードから、知られざる半生、そして芸人としての転機まで、チャンス大城さんの49年の人生を深掘りしていきます。
チャンス大城は若い頃「くわばたりえ」と付き合っていた
NSC大阪13期で同期だった
チャンス大城さんとくわばたりえさんは、1990年代初頭にNSC大阪校13期生として同じ時期に在籍していました。NSC(吉本総合芸能学院)は、多くの人気芸人を輩出している吉本興業の養成所として知られています。
同期には千原兄弟やFUJIWARAなど、後に人気芸人となる面々が在籍しており、非常に実力のある期として知られています。この時期、くわばたりえさんは「くわばた」としてピン芸人を目指しており、チャンス大城さんも芸人としての第一歩を踏み出したばかりでした。
感電するほど一目惚れ
チャンス大城さんは、NSCでの学生生活中にくわばたりえさんと出会い、その人柄に強く魅了されました。特に印象的だったのは、くわばたりえさんの持つ優しさと母性的な包容力だったと言います。
テレビ番組での発言によると、チャンス大城さんは「感電したみたいに大好きになった」と、当時の気持ちを率直に表現しています。これは単なる恋愛感情以上の強い衝撃を受けたことを示唆しており、彼の純粋な想いが伝わるエピソードとして知られています。
公園でのタックルエピソード
2人の交際中、最も印象的なエピソードの1つが公園でのできごとです。チャンス大城さんは、くわばたりえさんへの想いを抑えきれず、突然タックルをしてしまったと言います。
このエピソードについて、くわばたりえさんは後にバラエティ番組で「普通に倒れていました」と苦笑いしながら振り返っています。また、デート中に手を繋いだ際には「好きすぎて怖い」とチャンス大城さんが漏らしたことも明かされており、彼の純粋で一途な恋愛スタイルを象徴するエピソードとして語り継がれています。
チュー1回で終わった関係
くわばたりえさんは後年、テレビ番組で「チュー1回しただけ」と語っており、交際期間は比較的短かったことが分かっています。
当時、2人の間には芸人としての活動状況や知名度に差が生じ始めており、それが別れの一因となったとも言われています。しかし、この経験は両者にとって青春時代の思い出として、今でも時折テレビ番組などで笑顔で語られる良い思い出となっているようです。
チャンス大城の若い頃がヤバい!波乱の半生とは
15歳でNSC入学するも挫折
チャンス大城さんは、異例の若さである15歳でNSC(吉本総合芸能学院)大阪校に入学しました。これは当時、NSCの最年少入学記録とされています。しかし、この挑戦は簡単なものではありませんでした。
入学時、チャンス大城さんは年齢を偽って入学せざるを得ない状況でした。NSCの入学資格が18歳以上だったためです。この決断の背景には、幼い頃からお笑い芸人になることを強く望んでいた彼の情熱がありました。
しかし、年齢を偽っての入学は大きなプレッシャーとなり、初回の入学では挫折を経験することになります。同期生との年齢差や、芸人としての未熟さが重なり、一度は退学を余儀なくされたのです。
山に生き埋めにされた衝撃エピソード
チャンス大城さんの波乱の人生を象徴する出来事として、山に生き埋めにされた経験があります。この衝撃的な出来事は、彼の人生における重要な転換点となりました。
当時、いじめを受けていた彼は、数人のグループに連れて行かれ、山中で土をかけられるというfrightfulな経験をしています。この出来事は、後の芸人活動でも度々語られ、彼のネタの一つとなっています。
この経験は、彼に大きなトラウマを残しましたが、困難に立ち向かう力を身につけたと語っています。
いじめられっ子からお笑い芸人へ
チャンス大城さんは、学生時代、度重なるいじめの対象となっていました。しかし、この辛い経験が、逆説的に彼をお笑いの道へと導くきっかけとなりました。
いじめから身を守るため、周囲を笑わせることを覚えていきます。クラスメートを笑わせることで、いじめの標的から外れることができると気づいたのです。
この経験は、後の芸人としての活動にも大きな影響を与えています。自身の苦い経験を笑いに変える技術を培い、それが独特な芸風の確立につながっていきました。
F1グランプリものまねで優勝
チャンス大城さんの芸人としての転機となったのが、F1グランプリでのものまね優勝です。彼独特の声質を活かしたF1カーのエンジン音のものまねは、多くの人々の注目を集めました。
このものまねは、単なる音の模倣ではなく、F1レースの臨場感までも表現する独創的なものでした。この功績により、彼は「ものまね界のF1」として認知度を高めていきます。
この成功は、それまでの苦労や挫折を経て掴んだものであり、チャンス大城さんの芸人としての地位を確立する重要な転換点となりました。
チャンス大城のNSC時代
千原兄弟やFUJIWARAと同期
チャンス大城さんが所属していたNSC大阪13期は、現在の日本のお笑い界を代表する豪華な面々を輩出した期として知られています。
同期には千原兄弟の千原ジュニアさん、千原せいじさんをはじめ、FUJIWARAの藤本敏史さん、原西孝幸さん、くわばたりえさんなど、後に第一線で活躍する芸人が在籍していました。
特に千原兄弟とは同じ尼崎市出身ということもあり、親交を深めていたとされています。NSC時代から千原ジュニアさんの才能は際立っており、チャンス大城さんも「ジュニアは別格だった」と後のインタビューで語っています。
当時のNSC大阪校は、現在と比べても狭い環境で、生徒同士の距離が近く、互いに切磋琢磨できる環境だったと言われています。
年齢を偽って入学していた
チャンス大城さんのNSC入学には、波乱の道のりがありました。15歳という若さでNSCに入学を試みたものの、年齢制限により一度は断念を余儀なくされています。
その後、年齢を偽って再度入学を試み、今度は入学を果たしました。しかし、この時期はまだ精神的に未熟で、授業についていけず中退。その後、再度チャレンジして3度目の正直でNSCでの学びを本格的にスタートさせました。
この経験は、チャンス大城さんの芸人としての覚悟を固める重要な転機となったと考えられます。年齢を偽ってまで入学を果たそうとした執念は、彼の芸人への強い思いを表しています。
定時制高校との両立
チャンス大城さんは、NSCに通いながら定時制高校にも通学していました。昼間はアルバイトをして生活費を稼ぎ、夜は定時制高校で学業に励み、その合間をぬってNSCで芸人としての技術を磨くという、非常にハードな生活を送っていました。
この時期の経験は、後の芸人生活での苦労を乗り越える原動力となったと考えられます。定時制高校との両立は決して楽な道のりではありませんでしたが、この時期に培った忍耐力や時間管理能力は、後の芸人活動に大きく活かされることとなりました。
また、定時制高校での様々な年齢や背景を持つ生徒との交流は、ネタの創作や人間観察力の向上にも良い影響を与えたと言われています。
チャンス大城の芸人としての転機は?
大川興業への移籍
チャンス大城さんの芸人としての大きな転機となったのが、大川興業への移籍です。大川興業は、大川豊さんが代表を務める芸能事務所で、「B級タレント」を売りにしている異色の事務所として知られています。
大川興業は、独特な世界観と「売れない芸人」というコンセプトを逆手に取ったマネジメントを行っており、チャンス大城さんの個性的な芸風と相性が良かったと考えられます。
移籍後、チャンス大城さんは大川興業の特徴的な路線を活かしながら、自身の独特な芸風を確立していきました。大川興業では、所属タレントの個性を重視する方針があり、チャンス大城さんも自身の経験や特徴を存分に活かした活動が可能になりました。
ピン芸人デビュー
チャンス大城さんのピン芸人としてのスタイルは、独特な体験談を活かしたネタと、漫談とものまねを組み合わせた芸風が特徴です。
彼の代表的なネタには、以下のような要素が含まれています:
- 自身の波乱万丈な人生経験を題材にした漫談
- F1レースのものまねを中心とした音声表現
- 独特な間とテンポを活かしたトーク
チャンス大城さんは、自身の経験を笑いに変える才能を持っており、いじめられた経験や挫折を乗り越えた体験談を、コミカルに昇華させることに成功しています。
また、F1レースのものまねは彼の代表的なネタの一つとなっており、エンジン音やピットでのやり取りなど、独特な音声表現で観客を魅了しています。
漫談とものまねの組み合わせという独自のスタイルは、他の芸人との差別化を図る上で重要な要素となっており、チャンス大城さんの芸人としてのアイデンティティを確立することにつながっています。
このように、大川興業への移籍とピン芸人としての活動開始は、現在も多くのファンから支持されています。
チャンス大城のプロフィール詳細
お笑い芸人チャンス大城について、基本的なプロフィール情報をまとめました。経歴や実績から、芸人としての魅力に迫ります。
本名は大城文章
チャンス大城の本名は「大城文章(おおしろ ふみあき)」さんです。芸名の「チャンス」は、彼の人生における数々の転機や挑戦を象徴する名前として付けられました。
芸人としての活動当初は「大城文章」の本名で活動していましたが、より印象的な芸名を求めて「チャンス大城」と改名しました。この改名は彼の芸人としての転機となり、独特な芸風とともに多くの視聴者の記憶に残る存在となっています。
現在は大川興業に所属し、ものまねと漫談を組み合わせたスタイルで活躍しています。特にF1レースの実況のものまねは、彼の代表的なネタの一つとして知られています。
1975年生まれの49歳
チャンス大城さんは1975年1月15日生まれです。兵庫県尼崎市で生まれ育ち、現在49歳を迎えています。
幼少期から独特な経験を重ねながら成長し、15歳という若さでNSCに入学するなど、早くからお笑いの世界を志していました。約35年にわたる芸人生活の中で、数々の挫折や困難を乗り越えてきました。
現在は経験を活かした独自の話芸で、テレビやラジオなど様々な媒体で活躍しています。49歳という年齢を重ねた今も、精力的に活動を続けている実力派芸人です。
NSC大阪13期生出身
チャンス大城さんは、吉本総合芸能学院(NSC)大阪校の13期生として、お笑いの基礎を学びました。この13期には、後に人気芸人となる千原兄弟やFUJIWARAなど、実力派の芸人が多く在籍していました。
NSC時代は、くわばたりえさんとの交際や、年齢を偽っての入学など、様々なエピソードを持っています。定時制高校との両立を図りながら、芸人としての技術を磨いていきました。
NSCでの経験は、彼の芸風の確立に大きな影響を与えており、現在の独特な話芸やものまねのスタイルにつながっています。同期との交流や切磋琢磨した経験は、彼の芸人としての基盤を形成する重要な時期となりました。
チャンス大城の家族構成は?
父は金型工場の職人
チャンス大城の父親は、尼崎市で金型工場に勤める職人でした。金型工場での仕事は、製品の精密さが求められる重要な職種です。チャンス大城は、父親の職人としての真面目な姿勢や、ものづくりに対する情熱を間近で見て育ちました。
父親は工場での仕事に打ち込む一方で、家族思いな一面も持ち合わせており、チャンス大城の幼少期の生活を支えていました。職人としての厳しい仕事の中でも、家族を第一に考える父親の姿勢は、チャンス大城の人生観にも大きな影響を与えたと考えられます。
母はクリスチャン
チャンス大城の母親は熱心なクリスチャンでした。母親の信仰は家庭生活にも大きな影響を与え、チャンス大城自身も幼い頃から教会に通う生活を送っていました。
母親の信仰を通じて、チャンス大城は幼少期から道徳観や倫理観を育むことができました。また、教会コミュニティとの関わりを通じて、多様な価値観や人々との出会いを経験することができ、これらの経験は後の芸人としての活動にも活かされているといえます。
教会で侍者も経験
母親の影響で、チャンス大城は教会で侍者(アルターボーイ)としての経験も持っています。侍者は、ミサの中で司祭を補佐する重要な役割を担います。
教会での侍者としての経験は、以下のような側面で彼の人格形成に影響を与えたと考えられます:
- 礼儀作法や規律の大切さを学ぶ機会となった
- 人前で役割を果たす経験を積むことができた
- 信仰を通じた精神的な成長の機会となった
尼崎市の厳しい環境で育つ
チャンス大城は、兵庫県尼崎市という工業地帯で知られる地域で育ちました。当時の尼崎市は、工場が立ち並ぶ工業都市として発展する一方で、生活環境には課題も抱えていました。
この環境での成長は、以下のような影響を与えたと考えられます:
- 労働者の街ならではの現実的な生活感を体験
- 様々な境遇の人々との出会いを通じた社会性の育成
- 厳しい環境の中でも前向きに生きる力の獲得
このような環境での経験は、後のお笑い芸人としての活動にも深く影響を与え、彼独自の視点や表現力の形成につながったと考えられます。